晴れた空に空に浮かぶのは、半月よりもやや肥えた月。真っ暗ではないのはまだましだが、夜の山道で足元を照らすには少し……いやかなり頼りない。
 それでも、町から山向こうの街道へ続く方角は明るいうちに把握していた。細い山道だが、月明かりのあるうちは、先へ進むのはさほど苦ではないだろう。
「山をひとつ越えるまえに、きちんと体を休めておきたかったんですけどねぇ」
 あまり広くない山道を早足で登ながら、エレムがため息をついた。
「なんだよその恨めしそうな声は。俺は被害者だぞ」
「判ってますけど、……グランさんって、極端に運が悪いのを実力で無理矢理補ってるだけじゃないかという気が最近」
「……それは褒めてるのか?」
 半歩ほど先を歩くグランに横目で睨まれ、エレムは首をすくめて見せた。

 二人は騒ぎの後、さっさ町を抜け出して、南の街道へ抜ける細い山道をやや早足で進んでいた。
 町に入ったときに出くわした、品のない成金風の男の様子から、どうも今夜は平穏に過ごせなさそうなのは予測がついていた。形だけ宿はとったが、必要な荷物は全部持ち出してある。本来なら、街から逃げ出せばなんの問題もないはずだった。
 しかし、連中が最後に回収するつもりだった賭け金を、グランが全部持ち出しているから、すぐに追っ手が集められるのも目に見えていた。
「どれくらい、時間が稼げるでしょうね」
「頭悪そうだから、半時くらいは宿の近くでうろうろしてるんじゃね?」
 二人は宿の受付に、「絶対なくせない大事なものが入った」荷物袋を預けてきたままだ。それを聞けば追いかけて来た賭場の連中は、しばらくは宿の周りで二人が戻るのを待ちかまえていることだろう。
 処分するつもりだった荷物袋に、宿の備品を詰めただけのものだが。
 それに気付かれる前に、エレムとしてはできるだけ距離を稼いでおきたかった。
「って思ってたら、意外に早いかもな」
 ある程度山道を登ったところで、話のついでに何気なく振り返ったグランが、面倒そうに息をついた。
 それなりに離れたことで、町は眼下に一望できた。月明かりの下、外壁で囲まれた村の一部に、家の中で使う灯りとは違う強さの炎が集まりはじめている。松明を持った集団だと一目で判った。
「まったくこんな夜中までご苦労さんだよな」
「なんのためだと思ってるんですか……」
 グランが肩に担いだ麻袋をちらりと見やり、エレムはため息をついた。
 だいぶ距離は離れているが、相手は土地勘がある。近道なども知っているかも知れない。更に歩調を早めようとしたエレムの耳に、
「……こっちへ」
「え?」
 微かだが、人の声が聞こえた気がして、エレムは思わず視線を巡らせた。
「どうした?」
「今、人の声が……」
 グランはエレムよりずっと、人の気配に敏感だ。ささやきが聞こえるような距離に人がいれば、まず先にグランの方が気がつくはずだった。
 だがグランは、珍しくきょとんとした様子で、エレムの視線の先を目で追っている。
 エレムの視線の先には、昼間でも注意しなければ見逃してしまうような、埋もれかけた獣道があった。その更に奥で、微かに明かりらしきものが揺らいだ気がして、エレムは目をこらした。
 木々と茂みの合間から見える影は、思っていた以上に近かった。月明かりが照らす足元は細く華奢で、どうやら丈の短いスカートかズボンをはいた、少女のもののように思えた。
 グランにもそれが見えたのだろう。追っ手などどうでもよさそうな顔をしていたのに、人影を視界に捕らえたグランはすっと表情を消して目を細めた。
「なんだあれ……生き物か?」
「なに言ってるんですか」
「だって、人間の気配がしないぞ」
 実際に目に見えているのに、なにを言っているのだろう。エレムは理由を問おうとしたが、
「はやく、こっちに」
 一歩足を踏み出したことで、月明かりに全身が照らされたその姿は、確かに人間の少女だった。
  月明かりの下なので色まではよく判らないが、長袖の上着(シャツ)の上に、丈の短いワンピースのようなスカートを身につけている。スカートの下から伸びた 脚には、膝まで隠れるような長い靴下と、飾り物ののような可愛らしい靴を履いているが、およそこんな山の中を歩くのに向いているとは思えない。
「きみは……?」
 警戒心を隠さないグランとは対照的に、エレムは相手を驚かせないようにと、穏やかな声で聞き返した。そこで、少女がなにか四角いものを抱えていることに気がついた。
 それは、大人の男の手のひらの倍ほどのの大きさの、額縁のようなものだった。黒い光沢のある石で枠がとられ、中央にはガラスのような板がはめ込まれている。
 どうやらさっきエレムの目に見えた『明かりらしいもの』は、あの板が月の光を反射したからのようだ。
「わたしは……」
 言いかけた少女が、はっとした様子で道の先に視線を向けた。グランが胡乱げに片方の眉を動かした。
 さっきまで村の一部に集まっていた松明の明かりは、今は村の門を出て、その半分がこちらに向かって動き出していた。二人の姿をとらえたわけではないだろうが、このままここでじっとしていたら、すぐに見つかりそうだ。
「はやく、こっちに」
 少女は身を翻し、獣道を更に奥深くに向けて駆けだした。確かに草を踏む音もするし、踏まれた草が揺らいで身を起こそうとするのも見える。
「ちょっと待って、暗い中を一人だなんて危な……」
「あ、おい」
 エレムは反射的に、少女を後を追いかけて駆けだした。グランの声も、もう耳に入っていないようだ。
 いくら月明かりがあるとはいえ、こんな山の中を軽装の少女が明かりも持たずに歩きまわっているのだ。正体も判らなければ、自分達に声をかけた目的も判らない。そんなものに安易についていく方が、危ないに決まっている。
「……ったく」
  周辺に痕跡を残さないように気を配りながら、グランは後を追って獣道に飛び込んだ。
エレムの法衣は淡い黄(クリーム)色だから、少しの光源さえあれ ば多少の距離が開いても夜目には目だつ。更にその先を、見失わない程度の距離をしっかり保ち、時折手に持った板を月光にきらめかせて、少女は危なげなく獣 道の更に奥へと駆けていくのが見える。
 少女はさほど全力で駆けているようには思えなかったが、大人の男が同じような走り方をしているのに、いっこうに差が縮まる様子がない。
 ふと、グランの視界から娘の姿が消えた。木の隠れて見えなくなったのかと思ったが、後を追っていたエレムが、娘の姿が見えなくなった場所で立ち止まったのが見えた。
「どうした……?」
 肩で軽く息をついているエレムにやっと追いつき、その背にグランは声をかけた。娘を見失ったらしいエレムは、困ったような目をグランに向けた。
 そこは、山肌がむき出しになった、傾斜の緩い崖のような場所だった。見上げれば、崖は大人の背の倍ほどの高さがある。とても無理、とは言わないが、月明かりだけでなんの道具もなくよじ登るのは無理がありそうだ。
「グランさん、ここ……」
 エレムが見ていたのは、崖の上ではなく、山肌の一部に出来た隙間だった。
 かがめば大人一人なんとかくぐれそうだし、小柄な娘ならもっと苦もなく通れそうではある。だが、この先が洞窟のように続いているかどうかは判らない。
 ただ状況的には、娘はここをくぐって姿を消したとしか思えなかった。
 示し合わせたわけではないが、二人は揃って同じように、右と左からその隙間をのぞき込んだ。
 中には闇が広がっている……と思ったのだが、どこか外からの明かりを採れる隙間でもあるのか、月明かりに慣れた目でも中の様子がわかる程度に明るかった。中にはもっと広い空間が広がっていて、奥行きもあるようだ。
「……?」
 その更に奥で、何かが淡い光を放った気がして、二人は同時に目をしばたたかせた。
 目をこらすと、確かにその光のそばに、人の形をした影があるのが見える。さっきの少女が抱えていた板に、どこからか差し込んだ光が反射したのだろうか。
 エレムは周囲を軽く見回し、人目がないのを確認すると、
「おい、待てって……」
 気付いたグランが声を上げたときには、身をかがめて洞穴の入り口をくぐってしまった。
  さすがに、奥が続いているかも判らないような場所に、迂闊に入る真似はしたくない。入った後で、なにものかに出入り口をふさがれ たら身動きがとれなくなってしまう。
 もちろん周りに人の気配などないのだが、さっきの少女だって、姿は見えているのに気配が感じられなかったのだ。今だっ て、近くに自分達以外のものがいるようには感じられない。
 グランが戸惑っている間にも、エレムは奥へと進んでいる、中に入ってしまえば、大人一人が立ち上がって歩くのには十分な幅と高さがあるようだ。それでも、中に目立った光源があるわけではないので、エレムはさっきよりも慎重に歩を進めている。
 それが、人の形をした影があるあたりまで近づいたところで、
「……あれ?」
 エレムが首を傾げたのが、暗がりの中でもおぼろげに見えた。
「どうした?」
「これ……なんでしょう」

<後編に続く>

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