エレムが見下ろしているのは、「人のような影」なのだが、やはりそれは人ではないらしい。近くまで行ったエレムと比べると、その影はせいぜい彼のみぞおち程度の高さしかなかった。
 グランは少しだけ逡巡したようすで洞窟の周囲に視線を走らせたが、すぐにあきらめ顔で洞窟の中に入った。
  外側はただの山肌の裂け目だが、中に入ると、どうやら人の手が加えられているのが判る。壁や天井は自然のままのようだが、足元は比較的なめらかに 整えられている。しかし、どんな用途で利用されているのかは、よく判らない。
 たどり着けば、人の影のように見えたのは、子どもほどの大きさのただの岩だった。岩の頭に当たる部分は平らに削られている。

「……なんだ、これ」
 その岩の上に置かれたものを見て、グランも目をしばたたかせた。
 ぱっと見た感じ、それは小さめの額縁のように見えた。
  艶のある金属のような黒い板の上に、とても透明度の高い硝子(ガラス)のような板がぴったりとはりついている。しかし額縁なら、板とガラスをとめる留め金 くらいありそうなものなのに、黒い板とガラスの板は驚くほどぴったりとくっついていて、どうやってガラスを外して絵を挟むのかがよく判らない。
「これ、さっきの娘が手に持ってた奴か……?」
 ガラスの部分に光が当たって、それが反射していたのかも知れない。だが、この暗がりの中でも、他に人が隠れるような場所があるようには思えない。それは即ち、その奥がただの行き止まりだということなのだが。
「なんでしょうねぇ……、鏡でもなさそうだし」
 言いながら、おっかなびっくりといった様子でエレムがその板を持ち上げた。ひっくり返すと、裏側は全面が真っ黒い艶のある板で、模様らしいものはない。
「表面はとてもなめらかですけど、縁になにかでこぼこがあるみたいですよ」
 板の縁に触れていたエレムの指が、なにかに触れたらしい。まじまじと顔を近づけると、なぜ側面に錐で明けたような丸い穴や、鍵穴にしては小さく四角い穴があるのが見えた。
「ここになにかを差し込めば、黒い板とガラスが離れたりするんでしょうか」
「うーん……」
 問われても、グランにはさっぱり用途が思いつかない。エレムは単純に、その板に興味を持ったようだが、グランとしては他に変わったものもないのなら、さっさとここから外に出たい。
「気になるなら、持っていって明るいところで調べてみればいいだろ。あの娘もいないみたいだし、さっさと出ようぜ」
「ああ……あの子、僕たちに用事があったんじゃないのかな……あれ?」
 言いながら、エレムは手に持っていた板を不思議そうに眺め直した。
「なんか、ここを触ったら、へこんだんですけど」
「へこんだ?」
 エレムの人差し指が触れているのは、黒い板の縁の、角に近い部分だった。よくよく見れば、赤い印のようなものが刻み込まれている。
 そこに触れたのがなにかの合図だったかのように、ガラスを張られた板の表面が、不意に光を放ち始めた。
 慌てて岩の上に板を置いて、エレムは手を引っ込めた。
 それは不思議な白い光だった。もちろん、そこに火の気はない。それにその光は、蝋燭やランプの光とは全く異質の輝きだった。穏やかな光が、板の表面全体から放たれていて、それは二人の目をくらませるほど強くもない。それなのに、その板の表面だけは真っ白く輝いているのだ。
 二人が呆然と見つめる目の前で、光を放ったままの石版の表面に、黒色の文字が浮かび上がった。
 見たこともない異国の文字だ。二人がその文字の正体を思いめぐらす隙もなく、現れたときと同じような唐突さで文字がかき消えた。代わりに浮かび上がったのは、
「な……?」
 グランが驚きを通り越して、あっけにとられた様子で声を上げた。
 石版の光を足場に現れたのは、手のひらに乗るような大きさの、少女だった。
 それだけでも普通ではありえないのに、その姿は全体的に半透明で、形のある体がそこにあるようには見えない。
 いわゆる、妖精とでもいう存在なのだろうか。しかしと特に背中に羽が生えているわけでもなく、姿形自体は普通の人間だった。
「お願いが、あります」
 少女は胸の前で両手の指を組んで、二人の顔を交互に見上げた。実体はないようだが、声は出せるらしい。
「わたしを……」
「その前に」
 どうやら意思の疎通はできるらしい。最初の驚きが引くと、グランは冷ややかに細めた目で少女を見下ろした。
「人にものを頼む前に名前ぐらい名乗れ」
「名乗れって、グランさん」
 普通の人間なら、神秘的な奇跡とでも受け取って無条件で崇めそうなものだが、あいにくとグランが一番に信じるのは自分自身だった。
 こういう反応は予想外だったのか、少女は戸惑ったようにグランを見返した。
「……わたしは、ララ」
「俺達になんの用だ?」
「わたしを……届けてください」
 グランとエレムは顔を見あわせた。
 助けてと言われれば、なにかせっぱ詰まった事情があって、通りかかったものに声をかけているのかも知れないとも思えるが、届けて、とはどういうことなのか。
「それは……仕事を頼みたい、ってことか?」
 ララと名乗った少女は大きく頷いた。
「仕事というなら、話を聞いてやらないこともないが」
 グランは胡散臭そうに片眉を動かした。
「内容と、事情を説明しろ。犯罪には協力しねぇぞ。あと、報酬はなんだ?」
 一見、神秘的な存在とも思える相手に、ひどく現実的な要求をしている。
「悪いことでは、ありません。わたしを、『わたし』のところまで届けて欲しいんです」
「自分を自分に?」
「いいえ、わたしを、『わたし』のところまで」
 エレムが困ったようにグランに目を向ける。
「よく判んねぇな、あんたを届けるって言うのは、その石板を誰かに渡せばいいってことか?」
「石板……はい、そうです。これを、わたしに」
 ララは、自分の姿を浮かび上がらせている石版を見下ろし、頷いた。
「その『わたし』ってのは、どこにいるんだ?」
「それは、この石板が、示します。遠いけど、近い場所です」
「なんだそりゃ。どこの国の、なんて町なんだって聞いてるんだよ」
「あなたたちがその地の名前を知っても、意味はないと思います」
 グランは呆れた様子でララを見返した。
「名前も判らねぇような場所に、どうやって行くんだよ」
「それは、この石板が示します」
 どうやらこれ以上は、堂々巡りにしかならないようだ。
「……一応聞いておくが、俺達がそれを引き受けたとして、報酬はあるのか?」
「報酬は……」
 言いかけたララの視線が、なぜか洞窟の入り口の方へ向いた。今まで踏み越えてきた山の中の草地を、月明かりが青白く染めているのが伺える。その更に向こうから、微かに人の声が聞こえてきたのだ。
「……いたか?」
「いや、でもこっちの方に入ったのは見えたんだ……」
 合わせて、数人の足音が、草を踏みわけて歩いてくるのが聞こえる。目の前の光景に驚くばかりだったエレムの表情に、さっと焦りの色が見えた。
「もう、追いついてきたんですか?」
「さすがに早すぎねぇか?」
 彼女に脇道へと誘導されたとき、自分達を視認できるような距離に他に人は絶対にいなかった。いくら土地勘があったとしても、村から出てきたものが追いついてくるには早すぎる。
「ま、いざとなりゃのしちまえばいいだけだけどな」
 表情のこわばったエレムとは対象的に、グランはさして心配はしていないようだ。
 グランは確かに口も手も早いが、戦場以外の場所で、それも素人の命を進んで奪うような真似はしない。
 だが、武器を持った大勢でかかられてきたら、グランだって手加減はしないはずだ。剣を持った相手に、武器を持って襲いかかるというのは、そういうこ となのだ。
 追って来る者達のためにも、エレムはできれば鉢合わせは避けたかった。
 ララは、体をエレムに向けると、真っ直ぐに視線を合わせた。
「……あなたたちが、彼らに遭わないようにすることが出来ます」
「え?」
「あなたは、彼らとの衝突を避けたいのですよね?」
 エレムは言葉に詰まった。今まで自分「達」相手に話をしていたのに、ララはいきなり交渉相手をエレムのみに絞ったのだ。それは確かに、エレムにこそ有効な報酬だった。
「私の頼みを聞いてくれるなら、彼らがあなたたちと出会うことがないように計らいます。いかがですか」
「いかがですかって」
 グランにとっては、それ自体はどうでもいいのだ。追いついてこられたら、もう二度と追って来られないようにしてしまえばいいだけのことなのだから。
 グランの実力からして、素人がどれだけ束になったところでかすり傷ひとつつけることはできないだろう。
「……どうすれば、あなたを『届けて』あげられるんですか」
「おい、待てって」
 エレムの言葉を遮ろうとしたグランの声など耳に入らない様子で、少女はにっこり微笑み、
「石板が、示す方へ」
 くるりと向きを変え、右の腕ごと、洞窟の奥へと指をさした。二人がつられて、その示す方向へと目を向けたその瞬間、
 石板の上から少女の姿はかき消えた。
 残っているのは、石板の上に描かれた、赤色の矢印だけだ。
「……引き受けたことに、なっちまったらしいぞ?」
「そ、そうみたいですね……」
「みたいですねじゃねぇよ! 結局あれの正体もよく判んねぇし、言われたことは漠然としてるし……」
 続けて怒鳴りつけようとしたグランが、はっとした様子で口をつぐんだ。
 さっきよりかなり近い場所から、大勢の足音が草地を踏み分ける足音が聞こえてきたのだ。それなのに、グランには人の気配らしきものは感じられない。普段の自分の感覚なら、ありえないことだった。
「とにかく、石板が道を示すんですよね」
 足音が聞こえたことで焦りが加速したらしい。エレムは恐る恐る石板を手に取った。
「そっちは壁じゃねぇか」
「そうですけど、近づかないと判らない細い出入り口でもあるのかも……」
「とにかくちょっと待てって、娘のこともそうだけど、やっぱりなんかおかしいぞ」
 矢印が示すとおりに、石板の置かれていた岩の奥へと足を踏み出したエレムを止めようと、グランも足を進めた。その瞬間だった。
 二人がその場に立つのを待っていたかのように、洞窟の床に大きな光の法円が浮かび上がったのだ。円の周囲には、どこかで見た記憶のある記号的な文字が並んでいるのだが、それをはっきり見定める余裕は、二人にはなかった。
 法円は、立ちすくむ二人を飲み込むように光の柱を天井に向けて伸ばした。その光が、完全に二人の姿を飲み込むと同時に、
 地面がかき消えたような浮遊感を感じたのが、一瞬。
「き……」
「聞いてねぇぞおっ」
 浮遊感は急速な落下間に切り替わり、グランの叫び声がエレムの悲鳴をかき消しながら、光の落とし穴の中に吸い込まれていった。


<第一章 了>

futta2458m