周囲を覆う不自然な霧の中で、うごめく影があった。
 巨大で幅広な体躯、緑色の肌。手に持った棍棒は、一振りで人間の頭など簡単に打ち砕いてしまうほど太く重い。
 彼らは、一人の人間と、それを乗せた馬がやって来るのを、静かに待っていた。
 そして、張り巡らされた霧の動きが、獲物が彼らの方へ着実に近づいてくるのを知らせていた。
 それでもまだ、彼らは待った。獲物に警戒されないように、うなり声もあげず、静かに、ひそかに。
 その上に、
「……聞いてねぇぞおっ!」
 怒鳴り声を上げながら、『それ』が降ってきた。


 『それら』の中に落ちたとき、思ったほどの衝撃はなかった。ぼこぼこして安定感はないが、ほどよく弾力があるものが彼らの下敷きになったらしい。
「あ、ありえねぇ……」 
 グランは手探りで身を起こした。周囲は白い霧に覆われ、自分の足元も満足に見えない。それでも今は昼の明るさの中にいるのは間違いがなかった。さっきまで夜だったのに。
「な、なんなんですか、ここ。あの洞窟の地下?」
「なわけねぇだろ……」
 すぐそばで、エレムも上半身を起こしたのが見える。立ち上がろうと、自分達が落ちた『地面』を探っていたグランが、なにかに気付いた様子で動きを止めた。
 その手が触れているのは、岩にしては弾力のある緑色の固まりで、しかもなんだか温かい。
「い、生き物か?!」
 グランが間の抜けた声を上げると同時に、彼らの下敷きになっていた緑色の生物がのそりと起き上がった。はずみで、グランとエレムは今度こそ地面に放り出された。
「こ、これって、人……?」
「じゃなさそうだな……」
 グランは、『それら』を見て、さすがに息を飲んだ。
 形だけなら、人間に似てはいる。しかし背も体格も、グランが知っている『人間』の倍以上はあった。緑の肌と、なにより虚ろで感情のない瞳が、人間と同じ区分に入れるのを猛烈に拒否する。
 彼らは突然現れた二人を取り囲み、ぼんやりとした目で眺めている。手に棍棒を持っているものも多いが、それを振り上げようとする気配はなかった。ま るで目の前に現れたこの二つの生き物が、その棍棒を振るうべき相手かどうか、見定めているようだ。下手に身構えるのは、かえって危険かも知れない。
「大陸にこんな生き物がいるなんて、聞いたことがないですよ。岩で出来た巨人の話なら古代神話にありますけど」
「ここが同じ大陸内って保証もねぇけどな」
「まさか……」
 小声で言葉を交わす二人を黙って眺めていた『それら』が、突然なにかに気付いた様子で一斉に同じ方角に顔を向けた。
 そのまま『それら』はなにかに呼ばれるように、顔を向けた方向へと移動し始めた。それまで観察していた人間二人のことなど、『それら』はもうすっかり忘れてしまったようだった。
「霧が……」
 あっけにとられて『それら』を見送っていたエレムが、周囲を見回して目をしばたたかせた。あれほど濃く立ちこめていた霧が、あの生き物たちが移動するにつれてさあっと移動していくのだ。まるで、あの生き物たちを追いかけるように。
「普通の霧じゃねぇな。……いったいなんなんだ」
「なにを感じて、移動していったんでしょうか……あれ?」
 言いながら、エレムは左腕に抱えたままだった黒い石板に目を向けた。光を放った石板を水平に持つと、その表面に浮かび上がった矢印は、はっきりとひとつの方角を示した。
 霧をまとったまま歩き進んでいく、あの生き物たちの方角へ。
「……まさか、あいつらの行く先に、これを渡さなきゃいけない相手がいるのか?」
「かも……知れないですね……」
「……」
 少しの沈黙の後。
 二人は気の進まない顔のまま、矢印の示す方向へと駆けだした。


 馬は、走る。乗せた主の思い定める方向へ。
 栗色がかった白馬が、草原の中を白い風のように走り抜けていく。時折、馬の背よりも高く伸びた草地もあるが、馬は戸惑うことなく駆けていく。
「……?」
 それまで、迷うことなく一直線に駆けていた馬上で、その主が微かに首を傾げた。馬の首を撫でながら、なにか声をかけている。その言葉を理解したかのように、馬が心持ち向きを変え、速度を上げた。
 しばらく駆けた後、主がほっとした様子で馬の速度を落としかけた、その時、
 茂みの中から、太く大きな腕が、彼らに向けて伸びた。その手が、自分の体にまさに触れようとするのを、馬上の青年が理解するよりも早く、
 横から飛んできた大きな棍棒が、その腕の主の頭を直撃した。
 よほど当たりが良かったのか、棍棒を頭に受けた巨大な人間型の生物は、横倒しに倒れながら霧の中に溶けるように消えていった。そう、さっきまでは見通しの 良い草原の中を走っていたはずだったのに、いつの間にか青年を乗せた馬の周りには、濃い霧が立ちこめて辺りを白く染めているのだ。
「な、なんだ……?」
 いかに先を急いでいようとも、この濃い霧の中で、迂闊に前に進むことは出来ない。目を白黒させ、馬の速度を緩めた青年の耳に、
「やっぱり消えたぞ? なんなんだこいつら?」
「ああっ、今ので僕たちが攻撃してたのがばれちゃいましたよ!」
「そのでかいのが集団で襲ってくるとか反則だろうっ!」
  若い男二人の声と、人外の生物のうなり声、大きな棒のようなものを振り回し、打ち払う音。霧が阻んで姿を見ることは出来ないが、馬上の青 年は、何者かが自分達を襲おうとしたオークの群れを相手に立ち回っているのを耳で感じとった。察した瞬間、考えるよりも先に言葉が喉から出ていた。
「そいつらは召喚獣だ! ある程度以上のダメージを与えれば、召喚主の魔力の消耗量が上がって供給が追いつかなくなる、奴らは存在を維持できなくて霧散する!」
 青年の常識で言えば、こんな平地で野生のオークが狩りをするなどまずありえなかった。滅多に平地に現れないオークの群れが、偶然今の自分達の前に現れるものなのか。
 青年の言葉の意味を、霧の中の何者かは瞬時に理解したらしい。
「良く判んねぇが、ぶった斬っても問題なしってことか?!」
「ああ、こいつらを一刀両断するような腕があればだが……うぉわっ」
 速度を緩めたことで、近くにいたオークが青年と馬の居場所に近寄ってきた。
思わず声を上げた青年の脇をかすめるように、新たに飛んできた巨大な棍棒が、オークの顔面を直撃した。衝撃で顔の骨が砕け、肉片が飛び散るより先に、オークは倒れながら霧の中に溶け消えていく。
「それじゃ、さっさと片付けるぞ」
「あまり気は進まないですけどねぇ」
 霧の中のなにものかは、手放した棍棒の代わりに、自前の剣を抜いたようだった。その瞬間、周囲にいたオーク達が、怯んだように後ずさったのが、少し離れた場所にいる青年にも感じられた。あまり知性の高くないオークを、剣を抜いただけで怯ませるとは、一体何者なのだろう。
 刃が風を起こし、霧を切り裂くと共に、周囲にいるオークの数が目に見えて減っていく。オークの数が減ると共に、辺りを覆っていた霧も薄れて、青年の目には、オークの群れの中で、長剣を鮮やかに振るう黒い戦士の姿が見えるようになってきた。
  青年が舞うように剣を振るう度、オークの首が、あるいは胴が人形のように飛んでいく。あれが野生のオークなら、血が噴き出し、死の間際の痛みと怒りでオー クは咆哮を上げるだろう。しかし切り裂かれるそばから、オークの体は霧の中に霧散していく。戦士が確実にダメージを与えていくため、実体を維持するのと傷の修復のための魔力の供給が、追いつかないのだ。
 黒い風のように周囲を切り裂く戦士の背後には、彼の背を守るように大ぶりの剣を構えた金髪の青年の姿も見える。着ているのは、見慣れない、異国の神職を思わせるような白い服だった。
 だが、金髪の青年が、その大剣を振るう機会はなかった。彼が、背後のオークを剣で威嚇して動きを牽制するそのそばから、黒い戦士が手早くオーク達を片付けてしまうのだ。
 さほど時間もかからず、彼らの周囲にいた十数体のオークは、跡形もなく消え去っていた。オーク達が消えていくのにあわせて、立ちこめていた霧も消えて、そこに残ったのは踏み荒らされた草原と、三人の人間と、馬が一頭。
 黒い軽鎧の戦士は、血も曇りも残っていない自分の剣の刃を不思議そうに眺めている。
「つーか、魔法もなしで召喚獣を排除とか、何者……?」
「あ、あなたですか?!」
 先に背中の鞘に剣をおさめ、なにやら黒い板を懐から取り出して眺めていた白い法衣の青年が、はっとした様子で馬上の青年に顔を向けた。
「な、なに?」
「これを渡す相手ですよ! ララさんって、ご存じでしょう?」
「お前か?! お前が諸悪の根源か?!」
「な、なんの話?」
 嬉しそうな表情の金髪の青年と、顔立ちは美しいが柄の悪そうな黒髪の戦士に詰め寄られ、馬上の青年は思わず馬を走らせようと手綱を握りしめたが、肝心の馬が動こうとする気配がない。
「この石板が示す先に、これを渡す相手がいるって言われたんです。ほら……」
 金髪の青年が示したのは不思議な石板だった。透明な硝子の張られた黒い板の表面が光を放ち、赤い矢印を浮かび上がらせている。
 その矢印が、まっすぐに、馬と、それに乗る自分に向いているのだ。
「いやいや、こんなの、板の向きを変えれば……」
 青年の言葉に応えるように、金髪の青年は石板を水平に持ったままくるくると回転させた。不思議なことに、石板がどう回転しても、矢印の向きは変わらない。まるで羅針盤の針のようだ。
「なにこれ……? これと俺と、どう関係があるんだ? そのそもあんた達、なんでこんな場所にいるの」
 黒髪の戦士と金髪の若者は、馬上の青年の言葉を聞いて、顔を見あわせた。
「僕たちは、ある女性に、石板が示す先にいる人に、この石板を渡すように頼まれたんです……」
 金髪の若者のかいつまんだ説明を聞いて、馬上の青年はどう答えていいか判らず、困った様子で頷いた。
「……あんた達の話が本当だとしても、俺にはその石板の心当たりはないよ」
「そうですか……」
「結果的に助けてもらったみたいだし有り難いんだけど、俺、急いで行かなきゃいけない場所があるんだ。ここからあっちに真っ直ぐ行けば、俺の出てきた街があるから、人捜しならそこがいいと思う。戻ってきてまた会えたら、礼ぐらいはさせてもらうからさ」
「あ、おい」
 彼らには悪いが、今は急を要するつとめがあるのだ。馬上の青年は、多少気が引ける思いを振り切るように、馬を走らせ始めた。


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