町一番の権力者のグルーノが、お気に入りの女と通りを歩いていた。
 そこに、旅の途中らしい長い黒髪の傭兵と、金色の髪の若い神官が宿を求めて町にやってきた。
 その傭兵がえらいいい男で、グルーノの女が、思わずその男に色目を使った。
 黒髪の傭兵が鼻で笑って行きすぎた。
 自分のお気に入りの女を、自分より若くていい男に鼻で笑われて、グルーノの自尊心はいたく傷つけられた。

 話としては、単純なものだと思う。


 バーテンは、グルーノの手下におだてられながら酒場の二階にある賭場に案内されていった黒髪の傭兵の姿を思い出して、小さくため息をついた。
 手下達の体に遮られて、カウンターにいる自分からはよく見えなかったが、ちらりと見えた黒髪の男の顔立ちは、確かに驚くほど美しかった。身なりをきちんとすれば、貴族の青年がお忍びで旅をしているのだと言っても通用するだろう。
 運がなかったものだ、とバーテンは内心男に同情した。
 この酒場も、二階の賭場も、グルーノの持ち物だ。賭場では、『少しいい目を見せて調子に乗せた後で、黒髪の男から身ぐるみ剥いでしまえ』とグルーノからいいつかったディーラーや仕込みの客が、巧妙なイカサマ絵札(カード)を懐に忍ばせて機会を伺っていることだろう。賑やかな楽曲も、客や店の女達の喧噪も、今日は全部、黒髪の男を陥れるための小道具にすぎない。
 そしてたぶん、バーテンの目の前の青年も、それは判っているはずだった。
 人の気配であふれる二階の賑やかさとは裏腹に、一階のこの酒場には、バーテンと、もう一人しかいない。
 黒髪の男の印象(インパクト)が強すぎて、たぶん他の誰からも忘れられている、神官の青年だ。
 青年の傍らには、黒髪の男が腰に帯(は)いていた、黒い鞘におさまった長剣が置かれている。賭場へは武器は持ち込めないから、預かっているのだ。
 稔った麦の穂を思わせる柔らかな金色の髪に、人の好さそうな顔立ちのその青年は、カウンターの椅子に腰掛け、本来なら穀物酒を割るために用意している温かい緑茶を、美味しそうにいただいていた。
 あどけなさが残った顔立ちから、年齢は二十歳そこそこと思われた。その青年が身につけているのは、大地の女神レマイナの神官が身につける白っぽい法衣だ。
 それだけでもこうした酒場には場違いなのに、更にこの青年は、背中に使い込まれた大剣を背負っていた。どういう事情なのかは知るよしもないが、人の好さそうな彼の顔立ちには、似合わないことこの上なかった。
 両手でカップを抱え、大事に緑茶をいただいていた青年は、バーテンの視線に気付いて穏やかに微笑んだ。
「なんだか、グランさんがお騒がせしてすみません」
「え、いや……」
 この青年は、自分の連れがもうじき無一文どころか、とんでもない額の負けを背負わされるのが判っているのだろうか。
 バーテンが返事に窮したところで、階上がひときわ大きな歓声でわき上がったのが耳に届いた。
 ああ、そろそろ決着がついたのだな、と、バーテンは階段の方向に視線を向けた。
 明らかなイカサマに抗議する黒髪の男が、店の屈強な男達にボコボコにされて、引きずられるように店から連れ出されていく姿まで、バーテンには容易に想像が出来た。
 ……だが、ひとしきり上がっていた大勢の歓声が、怒号に変わる気配はない。逆に、戸惑ったようなどよめきが広がっているのが天井から伝わってくる。
 いつもとは違う展開(パターン)だ。もっとよく様子を伺おうと、バーテンは思わずカウンターから身を乗り出そうとした。
 その目の前で、からになったカップを置いた神官の青年が、満足そうに息をついた。
「このお茶、苦みが少なくて美味しいですね。いい葉を使ってらっしゃるんですか」
「いや、緑茶はお湯の温度にもコツがあって・・・」
 反射的にいつも通りに答えてしまったバーテンの言葉にかぶせるように、
 扉が乱暴に開けられる――というよりは、ぶち破られたような派手な音が、階段の上の方から鳴り響いた。
 扉一枚で抑えられていた二階の喧噪が、一気に階下まで 吹き込んできた。女達の甲高い悲鳴と、男達の怒号。何かが派手にぶつかり合う音と、
「ぎげぇっ」
 悲鳴なのかよく判らない声を上げながら、階段を転がり落ちてきたのは、賭場の『警備』をしている体格のいい黒服の男だった。階段の下の床まで転げ落ちてきた黒服は、背中をしたたかに打って目を白黒させたまま動かなくなった。
「ぐえぁっ」
「うぐぉ」
 奇怪な声を上げながら、床に倒れた黒服の上に更に、もう二人の黒服が降ってきた。
 獲物が逃げ出さないように、賭場の出入り口付近にさりげなく立つ役目の男達だ。ふたりとも最初の男と同じように大きな体格で、『警備』の男達の中でも特に場慣れしている。ちょっとやそっとじゃ動じない、はずだった。
 一拍を置いて、折り重なって動かなくなった男達の上に、今度は子どもの頭ほどの大きさの麻袋が降ってきた。ずっしり重そうな麻袋は、一番上の黒服の腹の上を直撃し、
「げごぉっ」
 気を失っていたはず黒服は大きく目を見開き、ひっくり返った蛙のように四肢をひくつかせて、また動かなくなった。縛られた麻袋の口から、何枚かの銀色の丸いものが飛び出して転がり、床の上で心地よい音を響かせる。
「まーったく、あんなちゃちいイカサマで、俺になにしようっていうのかね」
 声と一緒に、階段を降りてくる足音が聞こえる。
 唖然としているバーテンの視線の先で、折り重なった黒服を踏み越えて階下に降り立ったのは、今日の『主賓』のはずの黒髪の青年だった。
 服の上に身につけているのは、黒い革で補強された肩当てと胸当て。そして、黒革のブーツと指先のない黒革のグローブ。今は鞘のついていない、帯剣用のベルトも黒。すべてがそれなりに使い込まれているから、それに見あった経験者ではあるのだろう。
 確かによく鍛えられた体つきで背も高いが、とても素手であの三人を殴り倒せるほど力強くは見えない。だがこの状況ではどう考えても、この三人を階下へ放り投げたのは、この黒髪の男だ。
 階上からは、男達の怒鳴り声とどよめきが聞こえてくる。しかし、黒髪の男を追って駆け下りてくる足音はなかった。いきなり、店で一番強いはずの三人が片付けられてしまったので、率先して追いかけようと思う者がいないらしい。
 黒髪の男は涼しい顔で、黒服の腹の上の麻袋を拾い上げた。その美しい黒い瞳でバーテンを見てにやりと笑うと、金髪の青年に視線を向ける。金髪の青年は心得た顔で、預かっていた長剣を鞘ごと黒髪の男に放り投げた。
「もう用はねぇや。行くぞエレム」
「グランさん、悪いことはしなかったでしょうね」
「あいつらが使ってた変な絵札を、そのまま使い返して勝っただけだ。悪いことじゃねぇだろ」
 放られた剣を器用に片手で受け止め、グランと呼ばれた男は面倒そうに言い捨てた。勝った分の銀貨硬貨の詰まった麻袋を肩に担ぎ、さっさと酒場の扉に向かって歩き出す。
 立ち上がった神官の青年は、麻袋からこぼれて転がってきた銀貨を一枚拾い上げ、カウンターの中のバーテンに向かって軽く放り投げた。
「ごちそうさまでした、おつりは結構ですから」
 反射的に銀貨を受け取ったバーテンに向かって、エレムは笑顔でそう言うと、先に外に出て行ってしまったグランを追いかけて行った。二階の喧噪と、床に積まれた三人の黒服と、風に揺れる酒場の扉を順番に見比べ、バーテンは目を丸くしたまま呆然と立ちつくしていた。 

エピローグ用


 晴れた空に空に浮かぶのは、半月よりもやや肥えた月。真っ暗よりはまだましだが、夜の山道で足元を照らすには少し……いやかなり頼りない。
 それでも、町から山向こうの街道へ続く方角は明るいうちに把握していた。細い山道だが、月明かりのあるうちは、先へ進むのはさほど苦ではないだろう。
「山をひとつ越えるまえに、きちんと体を休めておきたかったんですけどねぇ」
 あまり広くない山道を早足で登ながら、エレムがため息をついた。
「なんだよその恨めしそうな声は。俺は被害者だぞ」
「判ってますけど、……グランさんって、極端に運が悪いのを実力で無理矢理補ってるだけじゃないかという気が最近」
「……それは褒めてるのか?」
 半歩ほど先を歩くグランに横目で睨まれ、エレムは首をすくめて見せた。
 二人は騒ぎの後、さっさと町を抜け出して、南の街道へ抜ける細い山道を登っている。
 町に入ったときに出くわした、品のない成金風の男の様子から、どうも今夜は平穏に過ごせなさそうなのは予測がついていた。宿をとったのは形だけで、必要な荷物は全部持ち出してある。本来なら、町から出てしまえばなんの問題もないはずだった。
 しかし、連中が最後に回収するつもりだった賭け金を、グランが全部持ち出しているから、すぐに追っ手が集められるのも目に見えていた。
 だいぶ距離は稼いだつもりだが、相手は土地勘がある。近道も知っているかも知れない。更に歩調を早めようとしたエレムの耳に、
「……こっちへ」
「え?」
 微かだが、人の声が聞こえた気がして、エレムは思わず視線を巡らせた。
「どうした?」
「今、人の声が……」
 グランはエレムよりずっと、人の気配に敏感だ。ささやきが聞こえるような距離に人がいれば、まず先にグランの方が気がつくはずだった。
 だがグランは、珍しくきょとんとした様子で、エレムの視線の先を目で探っている。
 そこには、昼間でも注意しなければ見逃してしまうような、埋もれかけた獣道があった。その更に奥で、微かに明かりらしきものが揺らぎ、
「はやく、こっちへ」
 月明かりの下に一歩足を踏み出した声の主の姿は、確かに人間の少女の姿をしていた。
 身につけているのは、長袖の上着(シャツ)の上に、丈の短いワンピースのようなスカートだ。脚には、膝まで隠れるような長い靴下と、飾り物のような可愛らしい靴を履いている。およそこんな山の中を歩くのに向いているとは思えない。
「きみは……?」
 聞き返したエレム、少女がなにか四角いものを抱えていることに気がついた。
 それは、大人の男の手のひらの倍ほどの大きさの、額縁のような板だった。黒い光沢のある石で枠がとられ、その表面を更にガラスのような板が覆っている。
 どうやらさっきエレムの目に見えた『明かりらしいもの』は、あの板が月の光を反射したからのようだ。
「それより、はやくこっちへ。追いつかれてしまいますよ」
 少女はすぐに身を翻し、獣道を更に奥深くに向けて駆けだした。
「ちょっと待って、暗い中を一人だなんて危な……」
「あ、おい」
 エレムは反射的に、少女を追いかけて駆けだした。グランはあっけにとられたようだったが、小さく舌打ちするとすぐにその後に続いて走り出した。


 エレムの法衣は白に近い淡い黄(クリーム)色だ。少しの光源さえあれば多少の距離が開いても夜目には目だつ。後を追うのは難しくないが、山中に続くけもの道は、どこにつながっているか想像もつかない。
 追いついて無理矢理止めるべきか、グランが思案しはじめたところで、エレムがやっと立ち止まったのが見えた。
「どうした……?」
 肩で軽く息をついているエレムの背に、グランは声をかけた。エレムは困ったような目をグランに向けた。
 二人が行き当たったのは、山肌がむき出しになった、傾斜の緩い崖のような場所だった。見上げれば、崖は大人の背の倍ほどの高さがある。
「見失っちゃいました」
「なにをだよ?」
「え?」
 今度はエレムが目を丸くする番だった。
「なに言ってるんです、さっき声をかけてきた女の子ですよ?」
「お前こそなに言ってんだよ、いきなりなにかに話しかけたと思ったら、急に走り始めやがって。いくら俺でも驚くだろうが」
「ええ……?」
 エレムは本気で戸惑った様子だ。
 こんな状況で、エレムが自分をからかっているとも思えない。どうするべきか、グランが思わずこめかみを指で押さえていると、
「グランさん、ここ……」
 エレムがなにかに気付いた様子で、視線を動かした。
 視線の先にあるのは、山肌の一部に出来た隙間だった。
 かがめば大人でも、なんとかくぐれるだろう。だが、この奥が洞窟のように続いているかどうかは判らない。
「ここをくぐって行ったのかな」
「だから人なんかいなかったって言ってるだろ」
 言いながら、二人は右と左からその隙間をのぞき込んだ。
 中には闇が広がっている……と思ったのだが、どこか外からの明かりを採れる穴でもあるのか、月明かりに慣れた目でも中の様子がわかる程度に明るかった。奥はもっと広い空間になっているようだ。
「……?」
 その更に奥で、なにかが淡い光を放った気がして、二人は同時に目をしばたたかせた。
 目をこらすと、確かにその光のそばに、人の形をした影があるのが見える。エレムはそれに気付くと、
「おい、待てって……」
 グランが声を上げたときには、身をかがめて洞窟の入り口をくぐってしまった。
 中に入ってしまえば、大人一人が歩くのには十分な幅と高さがあるようだ。それでも、中に目立った光源があるわけではないので、エレムはさっきよりも慎重に歩を進めている。
 それが、人の形をした影があるあたりまで近づいたところで、
「……あれ?」
 エレムが首を傾げたのが、暗がりの中でもおぼろげに見えた。
「どうした?」
「これ、なんでしょう」
 エレムが見下ろしているのは、「人のような影」なのだが、やはりそれは人ではないらしい。近くまで行ったエレムと比べると、その影はせいぜい彼のみぞおち程度の高さしかなかった。
 グランは少しだけ逡巡したようすで周囲に視線を走らせたが、すぐにあきらめ顔で洞窟の中に入った。
  外側はただの山肌の裂け目だが、中はどうやら人の手が加えられているのが判る。壁や天井は自然のままのようだが、足元は比較的平坦だ。しかし、どんな用途で利用されているのかは、よく判らない。
 たどり着けば、人の影のように見えたのは、子どもほどの大きさのただの岩だった。岩の頭に当たる部分は平らに削られている。
「……なんだ、これ」
 その岩の上に置かれたものを見て、グランも目をしばたたかせた。
 ぱっと見た感じ、それは小さめの額縁のように見えた。艶のある金属のような黒い板の上に、とても透明度の高いガラスのような板がぴったりとはりついている
「なんでしょうねぇ……、鏡でもなさそうだし」
 言いながら、おっかなびっくりといった様子でエレムがその板を持ち上げた。
「表面はとてもなめらかですけど、縁になにかでこぼこがありますよ」
 板の縁に触れていたエレムの指が、なにかに触れたらしい。まじまじと顔を近づけると、側面には錐で明けたような丸い穴や、小さく四角い穴があるのが見えた。
「ここになにかを差し込めば、黒い板とガラスが離れたりするんでしょうか」
「うーん……」
 問われても、グランにはさっぱり用途が思いつかない。エレムは単純に、その板に興味を持ったようだが、グランとしては他に変わったものもないのなら、さっさとここから外に出たい。
「気になるなら、持っていって明るいところで調べてみればいいだろ。誰もいないみたいだし、さっさと出ようぜ」
「ああ……あの子、僕たちに用事があったんじゃないのかな……あれ?」
 言いながら、エレムは手に持っていた板を不思議そうに眺め直した。
「なんか、ここを触ったら、へこんだんですけど」
「へこんだ?」
 エレムの人差し指が触れているのは、黒い板の縁の、角に近い部分だった。よくよく見れば、赤い印のようなものが刻み込まれている。
 そこに触れたのがなにかの合図だったかのように、ガラスをはられた板の表面が、不意に光を放ち始めた。
 慌てて岩の上に板を置き、エレムは手を引っ込めた。
 それは不思議な白い光だった。火の気を感じさせない、蝋燭やランプの光とは全く異質の穏やかな光が、板の表面全体から放たれている。
 二人が呆然と見つめる目の前で、光を放ったままの石版の表面に、
「な……?」
 グランが驚きを通り越して、あっけにとられた様子で声を上げた。
 石版の光を足場に現れたのは、手のひらに乗るような大きさの、少女だった。
 それだけでも普通ではありえないのに、その姿は全体的に半透明なのだ。いわゆる、妖精とでもいう存在なのだろうか。しかしと特に背中に羽が生えているわけでもなく、姿形自体は普通の人間だ。
「お願いが、あります」
 少女は胸の前で両手の指を組んで、二人の顔を交互に見上げた。実体はないようだが、声は出せるらしい。
「わたしを……」
「その前に」
 どうやら意思の疎通はできるらしい。最初の驚きが引くと、グランは冷たく細めた目で少女を見下ろした。
「人にものを頼む前に名前ぐらい名乗れ」
「名乗れって、グランさん」
 普通の人間なら、神秘的な奇跡とでも受け取って無条件で崇めそうなものだ。こういう反応は予想外だったのか、少女は戸惑ったようにグランを見返した。
「……わたしは、ララ」
「俺達になんの用だ?」
「わたしを、届けてください」
「それは……仕事を頼みたい、ってことか?」
 ララと名乗った少女は大きく頷いた。グランは胡散臭そうに片眉を動かした。
「仕事なら、内容と、事情を説明しろ。犯罪には協力しねぇぞ。あと、報酬はなんだ?」
 一見、神秘的な存在とも思える相手に、ひどく現実的な要求をしている。
「悪いことではありません。わたしを、『わたし』のところまで届けて欲しいんです」
「自分を自分に?」
「いいえ、わたしを、『わたし』のところまで」
 意味が飲み込めず、エレムとグランは顔を見あわせた。
「よく判んねぇな、あんたを届けるって言うのは、その石板を誰かに渡せばいいってことか?」
「石板……はい、そうです。これを、『わたし』に」
 ララは、自分の姿を浮かび上がらせている黒い石版を見下ろし、頷いた。
「その『わたし』ってのは、どこにいるんだ?」
「それは、この石板が示します。遠いけど、近い場所です」
「なんだそりゃ。どこの国の、なんて町なんだって聞いてるんだよ」
「あなたたちがその地の名前を知っても、意味はないと思います」
 グランは呆れた様子でララを見返した。
「名前も判らねぇような場所に、どうやって行くんだよ」
「それは、この石板が示します」
 どうやらこれ以上は、堂々巡りにしかならないようだ。
「……一応聞いておくが、俺達がそれを引き受けたとして、報酬はあるのか?」
「報酬は……」
 言いかけたララの視線が、なぜか洞窟の入り口の方へ向いた。今まで踏み越えてきた山の中の草地を、月明かりが青白く染めているのが伺える。その更に向こうから、微かに人の声が聞こえてきたのだ。
「……いたか?」
「いや、でもこっちの方に入ったのは見えたんだ……」
 グランは眉をひそめた。
「もう、追いついてきたんですか?」
「さすがに早すぎねぇか?」
 脇道へそれた時も、自分達を視認できるような距離に、人は絶対にいなかった。いくら土地勘があったとしても、村から出てきたものが追いついてくるには早すぎる。
「ま、いざとなりゃのしちまえばいいだけだけどな」
 さして心配はしていないグランとは対照的に、エレムは表情を固くした。
 グランは確かに口も手も早いが、戦場以外の場所で、それも素人の命を進んで奪うような真似はしない。
 だが、もし追って来る者達が武装していたら、グランはためらわずに剣を抜くだろう。剣を持った相手に、武器を持って襲いかかるというのは、そういうこ となのだ。
 追ってくる者達の大半は、事情もよく判らず集められた下っ端だろうというのも容易に想像がつく。グランの実力からして、素人がどれだけ束になったところでかすり傷ひとつつけることはできない。危険なのはむしろ相手の方だ。
 追って来る者達のためにも、エレムはできれば鉢合わせは避けたかった。
 ララは、体をエレムに向けると、真っ直ぐに視線を合わせた。
「……あなたたちが、彼らに遭わないようにすることが出来ます」
「え?」
「あなたは、彼らとの衝突を避けたいのですよね?」
 エレムは返事に詰まった。
 今まで自分『達』相手に話をしていたのに、ララはいきなり交渉相手をエレムのみに絞ったのだ。それは確かに、エレムにこそ有効な報酬だった。
「私の頼みを聞いてくれるなら、彼らがあなたたちと出会うことがないように計らいます。いかがですか」
「いかがですかって、俺は別に追いつかれても」
「……どうすれば、あなたを『届けて』あげられるんですか」
「おい、待てって」
 エレムの言葉を遮ろうとしたグランの声など耳に入らない様子で、少女はにっこり微笑んだ。
「石板が、示す方へ」
 くるりと向きを変え、右の腕ごと、洞窟の奥へと指をさした。二人がつられて、その示す方向へと目を向けたその瞬間、
 石板の上から少女の姿はかき消えた。
 残っているのは、石板の上に描かれた、赤色の矢印だけだ。
「……引き受けたことに、なっちまったらしいぞ?」
「そ、そうみたいですね……」
「みたいですねじゃねぇよ! 結局あれの正体もよく判んねぇし、言われたことは漠然としてるし……」
 続けて怒鳴りつけようとしたグランが、はっとした様子で口をつぐんだ。
 さっきよりかなり近い場所から、大勢の足音が草地を踏み分ける足音が聞こえてきたのだ。それなのに、グランには人の気配らしきものは感じられない。普段の自分の感覚なら、ありえないことだった。
「とにかく、石板が道を示すんですよね」
 足音が聞こえたことで焦りが加速したらしい。エレムは恐る恐る石板を手に取った。
「そっちは壁じゃねぇか」
「そうですけど、近づかないと判らないような出入り口でもあるのかも……」
「とにかくちょっと待てって、娘のこともそうだけど、やっぱりなんかおかしいぞ」
 矢印が示すとおりに、石板の置かれていた岩の奥へと足を踏み出したエレムを止めようと、グランも足を進めた。その瞬間だった。
 二人がその場に立つのを待っていたかのように、洞窟の床に大きな光の法円が浮かび上がったのだ。円の周囲には、どこかで見た記憶のある記号的な文字が並んでいるのだが、それをはっきり見定める余裕は、二人にはなかった。
 法円は、立ちすくむ二人を閉じこめるように光の柱を天井に向けて伸ばした。その光が、完全に二人の姿を飲み込むと同時に、
 地面がかき消えたような浮遊感を感じたのが、一瞬。
「き……」
「聞いてねぇぞおっ」
 浮遊感は急速な落下間に切り替わり、グランの叫び声がエレムの悲鳴をかき消しながら、光の落とし穴の中に吸い込まれていった。

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